『キャンベルのスープ缶』に隠された秘密。アンディ・ウォーホルの救いを考える。

アンディ・ウォーホル『キャンベルのスープ缶』から作品を作った話。
大槻香奈 2026.10.18
誰でも

こんにちは。美術作家の大槻香奈です。

本日はアンディ・ウォーホル『キャンベルのスープ缶』からヒントを得て制作した私の絵画作品を紹介したいと思います。

こちらの作品です。

『誰の言うことも聞かないで』2026年 910×727mm 紙・色鉛筆・アクリル

『誰の言うことも聞かないで』2026年 910×727mm 紙・色鉛筆・アクリル

この作品は2026年3月に私が都内で企画した、アンディ・ウォーホル『キャンベルのスープ缶』をテーマにした芸術お勉強会のために制作したものです。作品タイトルは『誰の言うことも聞かないで』なのですが、こちらは少女画なので「ウォーホルをどうヒントにしてこうなったの??」と思われるかもしれません。

『キャンベルのスープ缶』から私が何を考えたのか?ウォーホルの作品をどう捉えたのか?今日はそれについて書いてみたいと思います。

ウォーホル作品について

みなさんご存知の通り『キャンベルのスープ缶』はアンディ・ウォーホルによるポップ・アートを代表する作品です。1962年に発表され、実際のキャンベル社のスープ缶をモチーフに商業広告や大量生産品を芸術の題材として取り上げました。日常的な商品イメージを反復して描くことで、大量消費社会におけるイメージの流通や、芸術と商業の境界を問い直し、現代美術に大きな影響を与えました。

元々私はウォーホルの作品が好きで、それは単純に見た目のセンスの良さ、色彩と構成のキャッチーさによって惹かれてきたところが大きいのですが、それら作品群がウォーホルの人生とも密接に連動しているように見えて、個人的な感情移入と共に関心を持って観てきました。またウォーホルは活動初期に商業デザイナーとして数々の広告イラストレーションを担当し、後にアートの分野へと展開したことから、畏れ多くも私自身の活動歴とも重なる部分があり勇気づけられていました。

ウォーホル作品について、私はどちらかというと『キャンベルのスープ缶』を素通りして、おおよそ同時期に制作された『死と惨禍(Death and Disaster)』シリーズに注目していました。こちらは交通事故、暴動、自殺死などについてメディアに掲載されていた写真を使用したシリーズです。なかでも私は『電気椅子』(実際に死刑執行の際に使われたもの)の作品を好んで観ていました。モチーフが暗いのに見た目はポップで、椅子がただ置かれているという静寂の中で、生死を行き来するような絵画的な厚みに惹かれていました。

ウォーホルはこのような重い題材をシルクスクリーンの印刷技術によってイメージを反復することで、日常の中に潜む"死の虚構性"や、情報による"感情の希薄化"を表現し、当時の現代社会への皮肉として発表していました。そうしたテーマは、私には当時のウォーホルの「生きづらさ」を自画像的に捉えているように感じて、とても興味深く観ていました。

ウォーホルの人生

本題に入る前に少し、ウォーホルの人生に触れ、その背景を考えてみることにしましょう。

彼はアメリカのピッツバーグの移民エリアで育ち、東方系のカトリックで社会の中では少数派でした。そして同性愛者でした(当時のアメリカでは違法)。幼少期は病気がち。そして見た目にコンプレックスがあったために29歳の頃に整形手術をしてウィッグを付けていました。39歳の頃には知人に銃撃されたという大変ショッキングな出来事もあり、ウォーホルはスターになる以前も以後も人間関係に悩み続けてきたのではないかと察します。

そして根本にはアメリカ社会への疑念があったと思います。マイノリティから成功者として華やかな世界に足を踏み入れても、その多くの人が精神的な病からドラッグにハマってしまうなど、常に「死」の気配が絶えませんでした。そんな世界で、いずれは自分も社会に殺されてしまうかもしれないという大きな不安を抱えていたのではないかと想像します。

そうしたことを踏まえて再びウォーホルの作品群に立ち返ってみると、これまで記号的に見えていた作品世界が少し違った雰囲気で見えてきます。

自画像としての『キャンベルのスープ缶』

『キャンベルのスープ缶』を再び眺めてみます。あらためて、これは何を描いたものでしょうか?

先程も書いた通り、私は『死と惨禍』シリーズの暗い作品群をウォーホルの自画像のように捉えてきました。しかし『キャンベルのスープ缶』にもウォーホル自身をみることが可能だということに、徐々に気が付いていきました。

『キャンベルのスープ缶』に纏わるウォーホルのエピソードとして、幼い頃病気がちだったウォーホルにキャンベルのスープ缶を母親が食べさせてくれて、長年親しんでいたというのがあります。そしてアメリカでは作品と同デザインのキャンベル缶が日常的に店に並んでおり、当時のアメリカの人々にとっても見慣れたモチーフでした。そう考えると、キャンベル缶はウォーホル個人とアメリカ社会の色んな人々を繋ぐものであり、みんなにとっての「個人的な思い出」と共にあるモチーフであることが実感として見えてきます。

そして常に不安を抱えていたであろうウォーホルにとって、キャンベルのスープを与えてくれた優しい母の存在はとても大きなものだったと想像できます。キャンベル缶はウォーホルにとってどこか御守りのような心強さを持っていたのではないか…と。

さらにモチーフそのものについてよく考えてみると、キャンベル缶は見た目こそ記号的で無機質なように見えますが、中身はスープ(液体)であって、それは時間をかけて緩やかに劣化していくものだということがわかってきます。そう考えると、キャンベル缶はすごく「人間」そのものを連想させるモチーフなのです。

日本で例えるとスーツを着たサラリーマンのような…と言えば分かりやすいでしょうか。社会の中で分かりやすく記号化され、機械的に存在していても、その中身は常に揺らいでいて血が通っており、そして緩やかにつねに変化し続けているものなのです。ウォーホルはその、社会の中で隠れた「生」をキャンベルのスープ缶に投影したのではないでしょうか。その姿は、スターの皮を被ったウォーホル自身のそれでもあるように見えてきます。

『キャンベルのスープ缶』は1962年に手描きで制作、後に1968年にシルクスクリーンにて作品展開をしています。最初の手描きから技法が印刷に変わったところで、オリジナルとコピー(大量生産)で同モチーフを制作しているところから、個人と社会(大衆)を行き来するような感覚や、それぞれの見え方の違いに想いを馳せることもできます。

ウォーホルの御守り的存在であったキャンベル缶の作品展開は、世の中に対して「ウォーホル=キャンベル缶」のイメージを作り上げるために、ウォーホルが戦略的に(潜在的に)仕向けていたことかもしれない、とも思います。私には「スーパーでキャンベル缶を見つけたら、僕のことを思い出してね」というメッセージを作品から読み取ってしまいますし、そういった心強さはウォーホルが社会に対して欲しかった安心感ではないかと思うからです。『死と惨禍』作品シリーズから私が勝手に抱いてきた「僕を殺さないで」という声なき声の感覚は、形を変えて『キャンベルのスープ缶』からも感じられるものだと、時間をかけて気付くこととなりました。

ウォーホルは人から愛されたいと願い、その気持ちからスターへの憧れとなり、スターであり続けようとしたけれども、自身の核心めいた部分を人に見せようとはしませんでした。それは蓋の閉じられたままの、まだ開けられていないキャンベル缶のように… 心を開かぬまま、アメリカ社会の闇の出口の見つからぬまま、それでもこの作品を描くことで世界に安心したかったのではないかと思います。

***

…さて、そのような深読みをした後になんだか拍子抜けしそうなことを言うと、『キャンベルのスープ缶』は細かいことをすっ飛ばして「見た目が単純にカッコ良くて凄いのだ!」という感想も素直に持っています。パッと見は、言ってみれば缶が描かれてあるだけのビジュアルなのですが、長年観続けても全然飽きないのです。そういった画面のデザイン的な要素と、芸術としての作品の在り方、モチーフと制作に纏わるエピソードの数々から生まれる絵画としての重層感… 何も分からなくても分かったとしても、いつ観てもこの作品が不思議で魅力的であることは間違いないのです。

『誰の言うことも聞かないで』

さて、ようやく私の作品の話をしていきます。『キャンベルのスープ缶』を通して私が感じた問いは「この作品、あるいはウォーホルは何によって救われるのだろう?」ということでした。

前提として、芸術は人間にとってのある種の救いを考えていく分野だと私は考えています。心を閉じたまま生涯を終えたウォーホルに対しての自分のアンサーとして、何を描くべきかを考えました。信頼できない社会の中で何によって心を開くのか、生きる希望はどこにあるのか…と。

そこで、もし仮に自分がウォーホルの友人になって、彼にとっての心強さになれるのだとしたら…と考えてみることにしました。そこで出てきたアイデアが、この『誰の言うこともきかないで』という作品です。鏡の前で口紅を持った少女、その後ろから、もう1人の少女が覗き込んでいます。私はこの絵でおそらくウォーホルが最も欲しかった「他者」(友)と「信頼」を描くことを考えました。

『誰の言うことも聞かないで』作品一部

『誰の言うことも聞かないで』作品一部

大前提として、この作品については具体的なストーリーを絵の中では示していません。解釈の自由を許しています。その上で内容について書いてみようと思いますが、まず『誰の言うこともきかないで』というタイトルそのままの意味を考えれば、誰かが孤独に何かを決断した言葉のように聞こえるのではないかと思います。

けれども絵の中には2人の少女がいます。誰かが誰かに向けて言った言葉なのだとしたら「誰の言うことも聞かない、ということを相手が聞き入れている」という状況が生まれていて、それはきっと誰かと深い信頼関係のもとで成立するはずのものです。そうした存在は生きていくうえでの大きな心強さで、ウォーホルが必要としていたのはそのような心の友ではないかと考えたのです。

個人的に、ウォーホルの作品群は他者の入る隙がないように感じてきました。そのような閉じたうつわの出口を指し示すものとして、私は「鏡(自己とそれに映る他者とを同時に見つめる)」「少女2人(似た者同士だが他人)」「口紅(大人になるということ)」のモチーフの組み合わせによって、側にいる他者の心強さと共に(もちろん不可解な部分は存在するけれども)、人が心を開いて変わりゆく現実の揺らぎと未来の変容を受け入れようとする、その過程にあるような絵画を作りました。抽象的な感覚ではありますが、「ひとまず君の言うとおり、キャンベル缶を開けてみよう。話はそれからだ。」みたいな絵が描ければ良いなあと…。

『誰の言うことも聞かないで』下絵

『誰の言うことも聞かないで』下絵

この作品は最初にiPadで下絵を描き、その画像を紙に転写し、色鉛筆とアクリル絵具で仕上げていきました。ウォーホルが1962年に描いた32点の『キャンベルのスープ缶』は、拡大コピーした写真をスタンプにして、それをなぞる形でペイントされていますが、意図せずそれと近しい手法をとることとなりました。

私が自分の絵画に少女モチーフを好んで採用してきた理由として「人間の複雑性と向き合うため」というのがあります。少女時代が多くの女性にとって生物学的にも社会的にも変化の最中にあって、外側からも内側からも逃げられないものとしてあると思いますが、私はその複雑性と向き合うことは、辛くともきっと人間そのものを豊かにしていると信じているからです。なので少女画を少女のためだけではなく、少女のように複雑性と向きあわざるを得なくなった誰かに向けて、社会に広く開けた形で描いていきたい想いがあります。

絵画は何か思考を巡らすにおいてゆっくりとした時間を与え、また鑑賞のタイミングによって、都度別の答えを提示するものと思います。私はこの今回の作品において、「他者」の心強さと得体の知れなさを通して、それでも「絵画そのものが誰かにとっての心の友のようになれば良い」と考えました。ウォーホルが作品の中で叶えきれなかった他者と、この世界の出口の領域について、今も絵を描きながら考えています。

***

この作品は11月7日スタートの私の個展『君を幸せにする』(会場: 白白庵)でも発表予定です。みなさまぜひ、絵画の中の他者を見つけに来て頂けたらとても嬉しいです。

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